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2009/05/14

納棺夫日記 その後

第二章 人の死のいろいろ
第三章 ひかりといのち

読み進めて行くにつれ濃度の濃い話になる。
著者は多くの死者を見ていて、死者は静かで美しく見えてくるのに反し、死を恐れ覗き込む生者の醜悪さが気になってきたという。
死者はその生前の行いの良し悪しに関わらず成仏していくものであり、あくまで自力頼みで生きる生者のその醜さが対比して際立つように感じ始める。
生に立脚し、生に執着したまま死を見ればそれはどうしても死は生の延長であり一方的な見方でしかない。

後半に入ると自分には馴染みの高僧の名前や教えが出てくる。
法然、親鸞、西行、明恵、道元、一遍。
その時代には孤高の道を歩んだ高僧だ。
風変わり者、異端児といわれ、様々な苦境、苦行を経て偉大な僧になった人達。
この人達はみな詩人であると作者は言う。
不思議な光にめぐり合い詩人となった。
真如の光に出会った人が菩薩になり、その残映のような微光に出会った人が詩人になるという。

人は死ぬと何処に行くのだろう。
生前の行いによってそれ相応の極楽なり、地獄なり、九品往生なり。
死後にも良い処に往生したいならに生きている間に良き行いをせよといわれる。
しかしそれに反し、親鸞は悪人正機説を唱える。
他力、菩薩の力、アミターバという無量光、真如の光により生への執着がなくなり安らかな気持ちになり全てものもに感謝の気持ちに溢れるという回向に到達する。

善人ですらその光で救われる、ましてや悪人が救われぬわけはない。

だから死者は皆安らかな表情になる。


多くの人が色々迷ったり苦しんだりして何故か親鸞の歎異抄にたどり着くのは何故だろう。
それを不思議に思っているうちはまだまだひよっこだということかもしれない。
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コメント

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初めまして、ブログ拝見いたしました。
この本を読まれてる方は、かなり多いようですね。

映画があれほど有名になりましたからね。
映画館には出かけられなかったのでいつか借りてきたいと思っています。