本の話

すっかり涼しくなった最近です。
相変わらず小さくもありお騒がせな様々な事件山積な日々が続いています。
それが生きている証だと言われたらおしまいですが、文句たらたら言いながらも何とかしているわけでございます。
こう涼しくなると大好きな京都が呼んでいるように思えて仕方がないのですが
ますます手のかかる親と猫を抱えては身動きとれず「どうせね・・・」とふて寝している最近であります。
(目を閉じれば3秒で昏睡しているのでふてくされている間もないのが現実ですが。)




それでも猫は出かけていく




最近読んでいる「それでも猫は出かけていく」 ハルノ宵子

実は本の批評をしているネットのサイト 「イイ本 アリマス。」 を見ては読みたい本を探している。
そこで紹介されてこの本を読んでいるけどなかなか面白いしところどころで泣きそうになる。
作者はよしもとばななのお姉さん。
沢山の猫の世話をしながら親の世話をし自分も病気になり….
でも苦労話ではありません。
彼女の世話をしている猫はどの子も何かしら障害を持ち獣医と連携しながら最後まで見届けている。
人も猫も生きているもの全て、「生」を全うすることは並大抵のことではありません。
足元にも及ばないながらも共感する箇所が多々あり何度も読み直して時間をかけて読んでいます。
我が家の猫2匹も、もとは野良猫。
ジェットは子猫のときに農薬中毒で痙攣しているところを獣医に連れて行って以来13年ぐらいになり
ハナは職場の前の道路で交通事故にあい血だらけになっているのを獣医に連れて行って命拾いをして以来12年ぐらい。
歳をとってからは夏バテで食欲がなくなり週1回は栄養剤入りの点滴を受けに行っています。
今年も何とか夏を乗り越えたと一安心しているところです。
作者ほどではないが子供の頃から犬や小鳥や常に身近に動物がいる生活です。

ハルノさんは猫たちお世話をする生活の中で
「本当の介護って何だ?ひいては生命とは?生きるとは
猫たちの命、老いてゆく両親の命が、縄をなうように私の周りで展開していきました。」

それはまるで自分の姿を見ているような気がします。

猫たちを連れて行った獣医さんもなかなかです。
「すごいな・・・・動物は絶望しないもんな。」
動物を扱う専門家の一言は重みがあります。

「歩きたい!食べたい!生きたい!」それだけで、どんな障害をもった動物たちでも、ただ今日を生き延びているのです。
単純であるがゆえに高度のことを成しとげている人間以外の生物たちには、常に敬意を表します。




絶望しないで1日を生き延びる力を学びたいものです。


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2014.09.17 | | コメント(2) | トラックバック(0) | 読書



夏の読書

夏になると本屋さんの店頭に魅力的な文庫本が並ぶ。
夏の文庫100冊フェアなど。

中学、高校のときは夏休みに入ると必ず読書の宿題が出た。
ミュージカルで話題の「レ・ミゼラブル」は大作で半ばうんざりしながら読んだものです。
高校では毎月1冊指定された図書があり感想文も書かされた。それも英語の先生の課題。
女性の先生だが担当された2クラスだけ通常の授業が始まるまえの朝勉があったし
音楽会やシェークスピアの演劇の鑑賞、絵画の展覧会も勧められた。
その都度感想文の提出。
あの頃は何で自分達だけこんなに厳しいのかと嘆いたものだが今になってみればよい経験をしたと思っている。
おかげで音楽や絵画、演劇の鑑賞のイロハを教わりその後自分の好みで応用がきいてありがたい。
高校のときほど本を読んだことはなかった。
あの頃に読んだ本の記憶は鮮明だ。
それはまだ心も素直でスポンジのような柔軟性があったからなのだろう。
カミュやカフカなどの唯物論にも感化されて「変身」や「ペスト」を読んで感動した。
今では難しすぎてよくわからないけど。
今年、カミュは生誕100年という記事を新聞で読んで遠い昔を思い出した。

先日芥川賞と直木賞の発表があった。
どちらも美しい若い女性であった。
部屋に閉じこもって執筆に明け暮れた寝癖頭の無精ひげが生えた顔色の悪い男性が満面の笑みで苦労が実ったと喜んでいる姿が焼きついているが最近ではそうでもないようで。
文章のセンスとか癖は持って生まれたもので後付けは難しいのかもしれない。

昔読んだ本が出できた。
表紙の絵に何とも引かれて再読。

おとこ坂おんな坂


「おとこ坂。おんな坂。」 阿刀田 高
12話の短編の中、最後の「あやかしの町」に無性に引かれる。
京都大原の奥にある「阿弥陀寺」にまつわるちょっと怖い話だから。
阿弥陀寺がまたその話にぴったりの少し薄ら寒くて物の怪が出てきてもおかしくないお寺だから。
ただ怖いだけでなく、人の深い想いがその後にもこんな風に出てきても不思議でないから。
夏に読むにはぴったりの秀作。
引き込まれます。



2013.07.21 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書



旅をする木 オオカミ

「旅をする木」の解説は作家池澤夏樹が書いている。
全てはこの解説に集約されている。

この本で作者が書いたのは結局のところ行く先々で一つの風景の中に立って、あるいは誰かに会って、
いかに良い時間、満ち足りた時間を過ごしたかという報告である。
実際のはなし、この本にはそれ以外のことは書いていない。


確かにそれだけだが、それだけで十分に読者を酔わせる魅力のある文章なのだ。
33篇のエッセイの中、それぞれお気に入りがあるようだが私のお勧めの一つは「オオカミ」。
もっとも短い一編だがすんなり心に染み渡る。
マッキンレー山の南面から流れる氷河の一つ、ルース氷河。
生命の気配もない白一色の世界に自分も一人で立っているような気になる。
そんな孤独の中でオオカミの足跡を発見したら…。
誰とも共有できないその感動。
似たものを感じながら京都を歩いていると読みながら思う。

同じ旅をしたとしても人によってその感じ方は全然違う。
性格も好みも千差万別なのだから違って当たり前。
でも自分に似た感覚を持った人、同じ景色を見て同じように感動できる人にめぐり合えるとうれしいものだ。
現社会からかけ離れたところに身を置くと自分の生活に戻れない気がするのでなかなかそういうところにはいけない。自然と人ごみと赴くほうに自由に行けて悠久の人の歴史も感じられる。
そこで気兼ねなく一人になれて考える自由な時間が持てる。
私にとってそんな京都に出かけることがかけがえのないひと時なのだ。
京都で繋がる友人も貴重な存在。
この作者がアラスカから多大なるギフトを貰ったように私は京都から多くの貴重なものを貰っている。

解説者は
この世界は合理だけではない。目に見えるものだけではない。
ある場所に立ったとして、その風景の背後にあるものまで見なければ、その場所と本当に親しくはなれない。

という。
一人立つ氷河の上でオオカミの足跡を見つけたとき、それを見て何を想像するかで感動の度合いが違う。
極寒の地に餌となる生き物はいない。命の危険を犯してもオオカミが氷河を渡る意味とか覚悟とか。
その姿を想像するだけで鳥肌が立つほど神々しい。

あぁ、私もそんな美しい感動することに出会いたいものだ。






2013.06.26 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書



旅をする木

忙しい毎日を送っている。誰もがみんな忙しい。
定刻に起きて、いつものように朝ごはんを食べ、体が覚えているいつもの順番で用意をして仕事に出かける。
仕事では忙しい時と比較的暇な時もあり、様々なイレギュラーな事があっても仕事の範疇内。
多少のずれはあっても定刻には職場を後にする。

1週間、1ヶ月、半年、1年。
同じペースで日々を送っているとそれは清流と同じで流れがないと淀んでくる。
時々は日常から離れるという事だけで淀んで落ちた気力を取り戻せる。
私にとってそれが京都で過ごす時間なのだけど。

肩こりさんからのメールで星野道夫 「旅をする木」を勧められ読み始めた。
短編のエッセー集だ。


旅をする木


彼の撮ったアラスカの写真はテレビやポスターで誰も1度は目にしたことがあると思う。
彼は愛するアラスカで熊に襲われて命を落とした。


Hoshino2[1]


彼の撮った写真や映像を見ると心のどこかで警戒を即す鐘が鳴る。
この写真を見ても「やばいよ。やばいよ。」と心のどこかで思っているのだ。
私の乏しい旅行の経験からでも、引き込まれそうな圧倒的な自然、
人間社会の喧騒からきっぱりと引き離されたところに悠久の時の流れがあることを確かに知っている。
でもそれに触れて馴染んでしまうと自分の生活に戻れなくなることを予感する。
そんな引力に引き込まれてアラスカに生きた人が著者だ。



ずっと昔のことだけれど、大学受験に失敗して浪人していたとき。
代々木のマンモス予備校に通っていた。
授業の空いた時間に友人3人で代々木公園に行った。
天気の良いすがすがしい日で芝生に寝転ぶと空がきれいだった。
のんびり空を見て過ごしていたら何だかあくせく人と競争して勉強するのがバカらしいことに思えて
予備校の教室に戻って教科書を読んでもすべてが色あせたような気がしたことを思い出す。
その後どうやって気を取り直したか全然覚えていないが、
代々木公園の情景で別の世界に引き込まれそうになったことだけ鮮明な記憶として残っている。

普通の人は誰も今の生活の全てを捨てることは出来ない。
アラスカの圧倒的な自然の魅力に恐れもなく突き進んだ著者は
満点の星空の下や季節の移り変わりの中で人との関わりを暖かく感じて過ごしていた。
厳しい自然の中では生きていること、それだけで奇跡なのだと確信するだろう。
人が作り出した高度な文明社会は命の存在が希薄で不自然なのだ。
でもその社会の中で生きてきてしまった事実はいまさら変えられない。
彼の文章から描かれるアラスカの自然は遠い羨望であり
人に対する暖かさは現代人が忘れ去っている素直な人の情である。


捨てきれない今の生活の中でもせめて人間らしい情の持てる人でありたい。
そんなことを考えながら噛みしめるようにゆっくりとこの本を読んでいるところです。


2013.06.16 | | コメント(0) | トラックバック(0) | 読書



神も仏もありませぬ

100万回生きたねこ

嵐のような強風が吹き荒れる週末となりました。
すっかり葉桜となり桜吹雪を楽しむ時間などありません。

月に1回だけ通常の仕事が終わってから8時から11時までアルバイトのような仕事をしている。
平日の夜間だけ開いているそこでは4人のスタッフは持ちまわり制で行う。
どれだけ人が来るかは判らないので暇なときもあればてんてこ舞いの日もある。
暇を持て余したとき用に必ず本を持っていくことにしている。

この日は少し前に買った「神も仏もありませぬ」

神も仏もありませぬ
 

100万回生きたねこの作者だ。
男勝りのあっけらかんとした性格の人だったのだろう。
カッコをつけない文章は時に笑いを誘う部分も多々あるけれど、
心の苦しみの深遠を垣間見せる処もありハッとさせられる。
生前にお会いして話を聞いてみたかったものだなぁ、と思ってしまう。
気まぐれに押し寄せてくる漠然とした黒い不安のようなものとどう上手く付き合っていったらいいのかを。
きっと誰もが感じていてもそうやすやすと語れない自分の心の奥底にあるものを。

飼い猫のフネの死にあたって。

私は毎日フネを見て、見るたびに、人間がガンになる動転ぶりと比べた。
ほとんど一日中見ているから、一日中人間の死に方を考えた。
考えるたびに粛然とした。
私はこの小さな畜生に劣る。
この小さな生き物の、生き物の宿命である死をそのまま受け入れている目にひるんだ。
その静寂の前に恥じた。
私はフネだったら、わめいてうめいて、その苦痛をのろうにちがいなかった。
私はフネの様に死にたいと思った。
人間は月まで出かけることが出来ても、フネの様には死ねない。
月まで出かけるからフネの様には死ねない。
フネはフツーに死んだ。


長く生きていると人や動物の死にめぐり合う機会が多くなっていく。
その度に自分の死に方に対する覚悟を少しずつ決めていっている感じがする。
少しずつ少しずつ受け入れる練習をしているのだろうか。

そして著者のように
いつ死んでもいい。でも今日でなくてもいいと思って生きているのかなあ。
と結論づけるのだ。




2013.04.07 | | コメント(3) | トラックバック(0) | 読書



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kajika

Author:kajika
吾唯足知 (龍安寺のつくばい)
京都が大好き。
1年に数回出かけています。

京都旅行記から始まったBlog。
遅速ながら結構長く続いているものです。
日々の記録も兼ねて続けたいと思っています。

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